シルクロードと聞くと、砂漠を進むラクダの隊商や、遠い異国へ続く道を思い浮かべる人が多いと思いますが、その途中にあるのが、現在のウズベキスタンにあたる地域です。
サマルカンドやブハラを含む中央アジアでは、商人や旅人とともに宗教、音楽、意匠、工芸技術が行き交いました。
そうしたユーラシア各地の文化的要素は、主に唐を介して日本へ伝わり、その痕跡は奈良の正倉院宝物にも残されています。
やがてこの道は、第二次世界大戦後、故郷へ帰れない日本人を運ぶ道にもなります。
今回は、シルクロードの時代から現代まで、日本とウズベキスタンを結んだ長い歴史をたどってみたいと思います!
日本とウズベキスタンの関係は、いつ始まったのか?

日本とウズベキスタンが正式な外交関係を結んだのは1992年。
しかし!それを両国関係の始まりとしてしまうと、話は少し味気なくなります。歴史という何メートルもある長い巻物を、最後の数センチだけ読んで閉じてしまうようなものです。
勿論、古代の日本と現在のウズベキスタンの間に、現代のような国交があったわけでもなければ、飛鳥や奈良の朝廷から、サマルカンドへ外交使節が派遣されていた記録も確認されているわけでもない。
そもそも古代には、「ウズベキスタン」という国家自体が存在していませんでした。
当時の中央アジアには、ソグディアナ、バクトリア、フェルガナ、トハーリスターンなどと呼ばれる地域や政治勢力があり、サマルカンドやブハラのようなオアシス都市が栄えていました。
そのため、古代史を語るときには、日本とウズベキスタンが交流していたというよりも、現在のウズベキスタンにあたる地域と古代日本が、広大なユーラシアの交流網を通じて間接的につながっていたと表現するほうが正確です。
両地域の関係は、王や外交官の握手から始まったのではありません。
人から人へ、町から町へと渡された品物や知識が、何世代もかけてユーラシア大陸を横切っていく。
その長い連鎖の中に、古代日本と現在のウズベキスタン地域も存在していたのです。
シルクロードの主役、ソグド人

はるか昔より、東洋と西洋をつなぐ交易の道が存在しました。
この広大なネットワークこそがシルクロードです。
現在のウズベキスタンをはじめとする中央アジア一帯は、歴史的に東西の交易と文化が交差する重要な拠点となっていました。
古代の中央アジアで、東西交易の担い手として大きな役割を果たしたのがソグド人です。
ソグド人は、現在のウズベキスタンとタジキスタンにまたがるソグディアナを本拠とした、イラン系の言語を話す人々でした。
特にサマルカンド(現 ウズベキスタン)周辺は、ソグド文化の中心地の一つとして知られています。
中国の史料では、サマルカンドは康国、ブハラ(現 ウズベキスタン)は安国などの名で記録されました。
およそ4世紀から8世紀にかけて、ソグド人は中央アジアから中国各地へ進出し、オアシス都市や中国国内に商人の共同体を築きました。
彼らは絹や香料、金属器、ガラス製品などを運ぶだけでなく、宗教、音楽、舞踊、意匠、物語までも各地へ伝えました。
シルクロードが巨大な血管だとすれば、ソグド人はそこを絶えず循環する赤血球のような存在でしょう。
ソグド人は中国で交易だけでなく外交、通訳、芸能、宗教活動にも関わりました。仏教のほか、ゾロアスター教、マニ教、景教などの伝播にも関与しています。
こうしたソグド人と中央アジア文化の影響は、唐の都市や宮廷文化に深く入り込みました。
そして、その唐文化を日本が受け入れることで、間接的に奈良や飛鳥にも届いたと考えられています。
西域から日本へやってきた人たち
古代日本に、はるか西の国からやって来た人たちがいたかもしれない。そう想像するだけで、少しワクワクしてきませんか?
実は『日本書紀』には、そんな歴史のロマンを感じさせる興味深い記録が残されています。
注目したいのは西暦654年の記事。
吐火羅国の男女と舎衛の女性が、風に流されて日向(現 宮崎県)に漂着したという趣旨の記述があります。
「吐火羅」というのは、中央アジア南部のトハーリスターンやバクトリアに関係する名称だと考えられています。
ただし、ここでいう吐火羅を現代のウズベキスタン周辺の特定地域と直接結びつけることはできず、漂着者の実際の出身地や経路も明らかではありません。
それでも、日本の史書に西域に関係する名称を持つ人々の漂着が記録されていることは、古代ユーラシアと日本とのつながりを考えるうえで興味深い事例だといえるでしょう。
遠いオアシスの地から荒波を越えて日本へたどり着いた姿を想像すると、どこか数奇な運命を感じてしまいます。
話は漂着だけにとどまりません。
奈良時代、奈良の唐招提寺を建立した鑑真とともに日本へ渡ってきた如宝という僧侶。
如宝はシルクロードの交易で活躍したソグド人商人であったとされ、後に唐招提寺の長老となります。

シルクロードのオアシス都市と、東の果てにある日本。
途方もない距離を越えて、古代の人々は僕たちが想像する以上にダイナミックに交わっていたのかもしれません。
そう考えると、日本の古代史がさらに奥行きのあるものに感じられますね!
奈良に届いた、中央アジアの気配

8世紀の奈良は、東アジアにおける国際文化の到達点の一つでした。
当時の長安や洛陽は、中央アジアや西アジアから多様な商人や芸術家が集まる巨大な中継地だったので、遣唐使などを通じて日本が取り入れた唐の文化は、決して”中国”だけのものではありませんでした。
つまり、日本に届いたのは純粋な”中華文化”ではなく、中国文化を基盤としながら、ユーラシア各地の要素を吸収して再編された唐文化だったのです。
その痕跡は正倉院の宝物に色濃く残されています。
白瑠璃碗など、ササン朝ペルシアや西アジアとのつながりを示すガラス器や、インドに起源を持つ五絃琵琶の形式が、西域を通じて唐へ伝わり、唐で製作されたと考えられる螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)。
異国情緒あふれる葡萄唐草文様からも、西方世界からの影響は明らかです。
正倉院宝物は、一本のシルクロードの終点というより、ユーラシアを行き交った無数の文化の線が、奈良で結び合わされた歴史の結び目なのです。
さらに、中央アジアの影響は目に見える工芸品にとどまりません。 唐の宮廷で流行したソグド人の音楽や舞踊など、西域由来の芸能も日本へ伝わりました。
たとえば、聖徳太子が好んだとされる舞楽、蘇莫者(そまくしゃ)も、もとはサマルカンドの民俗芸能にルーツがあると言われています。
(『シルクロード世界史』、森安孝夫、2020年、㈱講談社、192頁)
日本が受け取ったのはソグド文化そのものというよりも、唐で編集されたユーラシア文化の一部。
異国の旋律は、長安で中国風の衣をまとい、海を渡ったのちに、奈良でさらに日本風に姿を変えていったのです。
江戸から明治へ、日本は中央アジアをどう知ったのか?
少し時代が下り、江戸時代に入ると日本の対外交流は幕府の管理下に置かれ、みなさんもご存知の通り、日本は鎖国状態となります。
しかし、清(現 中国)やオランダなどとの交易は鎖国下でもつづけられ、書籍の流入も完全に途絶えたわけではなかったので、清で編纂された地理書や歴史書を通じて、日本の知識人が中央アジアに関する情報を間接的に得る機会もありました。
さらに明治時代に入ると、外交官の西徳二郎が日本人として初めて中央アジアを踏査しました。

1881年に帰国した西は、その見聞を『中亜細亜紀事』として1886年に刊行し、日本に中央アジアの地理や社会を紹介しました。
こうして少しずつ”遠い西方世界”への知見は広がっていったものの、その後ロシア帝国からソビエト連邦へと体制が激変していく中で、日本と中央アジアが直接的かつ深く関わる機会はほとんどありませんでした。
シベリア抑留とナヴォイ劇場
ところが20世紀半ば、日本とウズベキスタンはまったく異なる形で交わることになります。
その出来事がシベリア抑留です。
第二次世界大戦後、ソ連軍に拘束された約2万5000人の日本人が、当時のウズベク共和国へと強制移送されました。
かつて絹や楽器が行き交ったユーラシアの道は、帰国を許されない人々を強制的に運ぶ移送路へと変わってしまったのです。
1945年の終戦後、満州や樺太、千島などで武装解除された旧日本軍の軍人・軍属等約57万5000人が、旧ソ連地域やモンゴルへ強制的に移送され、抑留生活と労働を強いられました。
その移送先は極寒のシベリアにとどまらず、はるか遠く離れたウズベキスタンなどの中央アジアにも及びました。
彼らは戦後であるにもかかわらず自由を奪われ、十分な食料や休息もないまま過酷な労働に従事させられたのです。
ウズベキスタンだけでも、800人を超える日本人が過酷な環境の中で命を落としています。
しかし、そのような絶望的な状況下にあっても、日本人抑留者たちは現地に確かな足跡を残しました。
その最も象徴的なものが、首都タシュケントの中心部に建つナヴォイ劇場です。

実は、この劇場の基礎や骨組みは、戦前の段階で現地のウズベク人たちによってすでに施工されていました。
約450人の日本人が担当させられたのは、主にはその上につづく内装や配線といった仕上げの工事だったそうです。
土台となる基礎工事の多くは現地のウズベクの人々が担ったとされていますが、強制労働という過酷な状況に置かれながらも、日本人抑留者たちが劇場の完成に携わったことは、現地に残された重要な歴史の一部です。
その堅牢さが証明されたのは、1966年にタシュケントを襲った大地震のときです。
街の多くの建物が倒壊する中、ナヴォイ劇場は無傷で立ち残り、被災した市民の避難所となったのです。
それだけではありません。日本人労働者たちが建築に携わった他の建造物も、その多くが地震に耐え、無傷のまま残りました。
家を失った人々にとって、崩れなかった建物は命をつなぐための最後の砦となったのです。
極限の状況下にあっても決して絶望せず、未来の誰かのために黙々と石を積み上げた彼らの姿勢が、結果として多くの現地の命を救ったのです。

ナヴォイ劇場は、よく両国友好のシンボルとして紹介されます。
しかし、その美しい姿の裏には仕事に対する誇りと同時に、自らの意思に反して連行された人々の苦しみが間違いなく重なっているのです。
独立によって始まった、国家同士の関係

1991年、ソ連の解体に伴ってウズベキスタンは独立しました。
日本は同年12月28日にウズベキスタンを国家として承認し、1992年1月26日に外交関係を樹立。
翌1993年にはタシュケントに日本大使館が開設され、1996年には東京にウズベキスタン大使館が置かれました。
ここでようやく、日本とウズベキスタンは現代的な意味で、国家と国家として向き合うことになります。
2004年、日本はウズベキスタンを含む中央アジア5か国との協力を進めるため、「中央アジア+日本」対話を立ち上げました。
その後も両国関係は拡大し、2015年や2019年には首脳往来が行われました。
さらに2025年12月には、東京で初めて「中央アジア+日本」対話の首脳会合が開催され、日本とウズベキスタンは戦略的パートナーシップに関する共同声明を発表。
共同声明では、重要鉱物やウラン、エネルギー転換、農業、水資源、運輸・物流、デジタル技術、医療などが具体的な協力分野として掲げられています。
今後の関係
ロシア・ウクライナ戦争や中東情勢の緊迫化を受け、日本では資源やエネルギーの調達先を分散させる重要性が高まっています。
日本は天然資源の多くを輸入に頼っているため、特定の国や地域への依存は、紛争や輸出規制、物流の混乱による大きなリスクとなります。
そこで近年関心が高まっているのが、ウランや重要鉱物などを有する中央アジア。
なかでもウズベキスタンとは、資源の安定供給やサプライチェーン構築に向けた協力が進められています。
現時点では資源貿易は限定的であるものの、将来の調達先として注目される存在です。
さらに、経済改革と人口増加が続く同国では、エネルギー、水処理、農業、医療、IT、インフラなど、日本企業が強みを生かせる分野も広がっています。
かつて文化や人々を運んだシルクロードは、いま再び、資源や技術、ビジネスを結ぶ道になろうとしています。
日本とウズベキスタンの関係は遠い国同士の物語ではなく、僕たちの暮らしや仕事にもつながる、これからの日本にとって大切な関係なのです。