山梨県の清里といえば、清泉寮のソフトクリーム。
清泉に着くと、なぜかソフトクリームを食べずには帰れない気持ちになります。
このあいだ行った時は、せっかくだからと定番のソフトクリームとプレミアムソフトクリームを注文。贅沢にも二つ同時に味わいました。
食べ比べといえば聞こえはいいのですが、冷静に考えると、ソフトクリームを両手に持っている大人はなかなかシュールです。笑
さて、その甘い時間のあとに小海線沿線を東へ進むと、景色は少しずつ変わっていきます。
小海線の西側から八ヶ岳西麓にかけては、清里や野辺山、少し広げれば蓼科や白樺湖のように、別荘地や観光地として賑わう場所が多くあります。
一方で東へ進むと、川上村のレタス畑や、南相木村の山村風景が目立つようになります。
同じように標高が高く、同じように自然に囲まれているのに、なぜ西側はリゾート地として発展し、東側には農業や山村の風景が残ったのでしょうか。
今回は、なぜ小海線西部はリゾート化され、東部はそうならなかったのかを一緒に考えていきます!
小海線とは?

ここで少しだけ、小海線とその周辺の地理を整理しておきます。
小海線は、山梨県の小淵沢駅から長野県の小諸駅までを結ぶ高原の路線。
清里や野辺山を通り、八ヶ岳のふもとから千曲川上流の山あいへ抜けていきます。
標高の高い場所を走るため、車窓の雰囲気が場所によって大きく変わるのが特徴です。
清里駅と野辺山駅の間にはJR線最高地点があり、その標高1375mにちなんだ観光列車「HIGH RAIL 1375」も走っています。
夜には星空を楽しめる列車もあり、小海線そのものが高原を味わう乗り物として親しまれています。

沿線の西側には、清里や野辺山のような高原観光地があり、少し広く見れば蓼科や白樺湖といった別荘地・リゾート地も近くにあります。
一方で東に目を向けると川上村のレタス畑や、南相木村の山村風景が目立つようになります。
小海線沿線は、ただの高原鉄道ではなく、同じ高原の自然が、ある場所では観光や別荘地に、別の場所では農業や暮らしの風景に変わっている。
その違いを車窓から感じられる路線なのです。
同じ高原なのに、なぜ景色が変わるのか?

雲海が綺麗な隠れ絶景スポット
清里や野辺山、蓼科あたりをドライブすると、「高原に来たな」という感じがします。
牧場、ソフトクリーム、別荘、涼しい風。まさに高原リゾートです。
一方で、小海線沿線から東へ向かうと景色の主役は変わります。
川上村のあたりではレタス畑が広がり、農業用ハウスや大型トラックが目に入ります。
さらにその北にある南相木村の方へ目を向けると、観光地というよりかは山と谷に抱かれた村の風景が濃くなっていきます。
ここで面白いのは、どちらも自然があることです。
西側だけが美しく、東側が何もないわけではありません。
むしろ、東側にも空の広さや山の静けさがあります。
川上村の畑の風景も、南相木村の山村風景も、見方を変えればかなり魅力的です。
では、違いは何なのか。
それは景色の良し悪しではなく、自然を何に変えてきたかの違いではないかと僕は思うのです。
清里や蓼科では、高原の涼しさや美しい景色が、観光や滞在を楽しむための魅力として活かされてきました。
一方で、川上村や南相木村では、同じような自然が野菜を育てる畑や、山あいでの暮らしを支える場所として使われてきました。
その土地の自然を、観光に活かしたのか、農業や暮らしに活かしたのか。その違いが表れているのかもしれません。
ではなぜ清里や蓼科がリゾート開発されて、川上村や南相木村周辺は農村として残ったのでしょうか?
僕たちは「高原」と聞くと、なんとなく良いイメージを持ちます。
涼しい
空気がきれい
景色がいい
ソフトクリームがおいしそう

でも、昔の人にとって高原は、必ずしも憧れの場所ではありませんでした。
標高が高いということは、たいてい寒くて風が強く、農業が難しいということです。
夏は涼しくて最高と思いがちですが、冬になると絶望的に寒くなります。
暖房や道路、物流が今ほど整っていない時代には、その涼しさは生活の厳しさでもありました。
つまり高原は、最初から観光地だったわけではなく、むしろこの厳しい場所でどうやって暮らしていくかを考えなければならない場所だったのです。
なぜ清里に酪農が必要だったのか?
清里というと、牧場や清泉寮のソフトクリームが思い浮かびます。
けれど、清里は最初から観光地だったわけではありませんでした。
八ヶ岳清里資料館の年表によると、1875年に清里村が成立した当時、すでに226戸・1000人が暮らしており、佐久往還沿いの往来もありました。
つまり清里は、もともと人の暮らしがある農村だったのです。
ただし、その暮らしは決して楽ではありませんでした。
標高が高いということは、夏は涼しくても、冬は寒いということ。
風も強く、江戸時代には清里周辺が「風切りの里」と呼ばれ、雨乞いや暴風雨よけの神事も行われていました。
つまり清里は、人が暮らす農村でありながら、農業にとっては厳しい自然条件を抱えた土地でもあったのです。
清里のすぐ隣にある野辺山は、冬期の最低気温が-12℃、夏の平均気温も20℃を下回るため、夏は涼しく冬は極寒という地域なのです。
ここで必要になったのが、酪農でした。
米作りや一般的な畑作だけでは、寒さや標高の高さが不利になりやすい。
一方で、牧草を育て、乳牛を飼う酪農なら、その涼しさや高原の環境を活かせる可能性がありました。
実際、清里では大正中期に夏の乳牛放牧が行われ、戦時中には酪農組合の結成や、小海線での牛乳出荷も記録されています。
さらに第二次世界大戦後、米国の伝道師であるポール・ラッシュ(Paul Rusch / 1897~1979)が清里で村落共同体生活プロジェクトを発表し、酪農を中心とした新しい農村づくりを進めていきました。
つまり、清里の酪農は観光用の飾りでは、決してなかったのです。
寒くて、風が強くて、農業だけでは安定しにくい。
そんな土地の弱点を酪農、ソフトクリーム、そして観光へとつなげていく試みだったのです。

そう考えると、清泉寮のソフトクリームも少し違って見えてきます。
あれはただの美味しい観光名物というだけではなく、清里が寒さや標高という条件と向き合い、それを酪農と観光に変えてきた歴史の象徴でもあるのです!
そして後年の清里は、別荘地やスポーツ・レクリエーション施設、観光イベントなども整備されていきます。
1985年に「清里の森」という別荘地が整備され、1986年に総合スポーツ・レクリエーション施設「丘の公園」が開設されました。
こうして清里は、農村の再建から始まり、酪農と観光を重ねながら、現在の高原リゾートのイメージを作っていったのです。
蓼科は、高原を「泊まる自然」に変えた

一方、蓼科は清里とは少し違う道を進みました。
蓼科も決して平らな場所ではありません。むしろ山がちです。
でも、そこに温泉、湖、草原、山岳景観、別荘、ドライブといった要素が重なりました。
茅野市の公式観光情報では、蓼科エリアを「文人墨客も愛した由緒ある高原リゾート」と紹介し、車山・白樺湖エリアについても「花々が風に揺れる草原でアクティブに遊ぶ」と案内しています。
つまり現在の蓼科周辺は自治体の見せ方としても、農業地帯というより高原リゾートとして位置づけられているのです。
ここで大事なのは、蓼科が山がちだから不利だったのではなく、山がちだからこそ滞在地として価値を持ったという点です。
農業の目で見れば、斜面や山道は使いにくいかもしれません。
でも、観光の目で見ればそれは景色になり、ドライブコースになり、別荘地になり、温泉地の雰囲気になります。
つまり蓼科では、高原を農業のために使うよりも、宿泊、保養、別荘、観光のために活かす方が、その土地に合っていたのだと思います。
ソフトクリームを食べて帰るだけの高原ではなく、数日間そこに身を置いて、朝晩の冷たい空気や湖畔の静けさまで味わう高原。
同じ八ヶ岳周辺でも、蓼科はそういう“泊まる自然”として育っていったのです。
小海線西側には、観光地の「輪」ができている
小海線西側がリゾート化した理由を考えるとき、もう一つ見逃せないものがあります。
それは、観光地同士のつながりです。
清里や野辺山だけを見ると、単独の高原観光地に見えるかもしれません。
でも少し広い地図で見ると、小海線の西側から八ヶ岳西麓、さらに信州中部にかけては、観光地がまるで円を描くように並んでいることがわかります。
蓼科高原や車山高原を中心にして、茅野、諏訪、高ボッチ高原、松本、美ヶ原高原、別所温泉、小諸、軽井沢、八千穂高原、野辺山、清里へと、車でめぐれる観光地の輪ができているのです。

これはかなり大きな違いです。
観光地は、ひとつだけで強くなるとは限りません。
近くに温泉がある
風光明媚な景色がある
高原道路がある
別荘地がある
有名な街がある
次に向かう目的地がある
こうした場所がつながっていると、旅行者はせっかくだから、あそこも寄ろうと考えます。

一日目は清里に行ったあと、野辺山へ行く。
その後、白樺湖や車山に行って、夜は蓼科のコテージに泊まる。
二日目の朝は早起きしてみて、高ボッチ高原で雲海を見てみる。
二日目の午後は軽井沢まで足を伸ばしてショッピングをする。
こうして、ひとつひとつの観光地が単独ではなく、周遊ルートの一部になります。
つまり小海線西側は、観光地が点ではなく、線や円としてつながりやすかったのです。
しかも、この地域は道路の相性も良いです。
ビーナスラインのような高原道路があり、茅野や諏訪、松本、小諸、軽井沢方面へも移動しやすい。観光客にとって、「行って終わり」ではなく、「次へ進める」場所になっていました。
これは観光地としてはかなり有利です。
別の観光地と組み合わせやすい。この「ついでに行ける」「ぐるっと回れる」という感覚が、リゾート地としての広がりを作っていったのだと思います。
一方で、川上村や南相木村周辺は少し事情が違います。
川上村や南相木村の方へ進むと、道はだんだん山の奥へ入っていくような印象になります。
もちろん道がないわけではありません。
ただ、蓼科や清里のように、次々と有名観光地へつながっていく感じとは少し違います。
どちらかというと、目的を持って入り込む場所です。
南相木村も、立岩湖や立原高原、キャンプ場など魅力はあります。
けれど、蓼科や白樺湖のように周辺の観光地とまとめて回る動線は、そこまで強くありません。
なお、川上村から埼玉県秩父市方面へ抜ける中津川林道もありますが、残念ながら現在は災害による崩落などの影響で通行止めがつづいています。
仮に通れた時代でも、一般的な観光客が気軽に通る道というより、林道好きや山道に慣れた人が向かう道という性格が強いと思います。
この違いは、観光地化を考えるうえでかなり大きいです。
小海線の西側には、清里、野辺山、蓼科、白樺湖、諏訪、松本、小諸、軽井沢と、観光地や別荘地が輪のようにつながっています。
清里だけで終わらず、蓼科へ行く、諏訪へ抜ける、軽井沢方面へ足を伸ばす。そんなふうに、旅のルートを組み立てやすい地域です。
一方で、川上村や南相木村の周辺は、山や谷の奥へ入り込んでいくような場所です。
自然は豊かですが、西側のように次々と観光地をつないで回るというより、目的を持って訪れる場所に近い。
つまり西側は「通り抜けながら楽しめる高原」になりやすく、東側は「山あいへ入り込む高原」になりやすかったのだと思います。この道路と観光地のつながりの差も、小海線西部がリゾート化していった大きな理由ではないでしょうか?
では、川上村はなぜリゾート化しなかったのか?
ここでいよいよ川上村です。
川上村も標高が高く、涼しい地域。
景色もあり、空も広く、高原らしさもあります。
では、なぜ清里や蓼科のような大きなリゾート地にならなかったのでしょうか?
ここで注意したいのは、「清里は農業に向かず、川上村は農業に向いていた」と単純に分けられるわけではないことです。
どちらも高冷地であり、標高の高さもあります。
つまり、清里も川上村も農業にとって楽な土地だったわけではありません。
違ったのは、その厳しい条件を何に変えたかでした。
清里では、高冷地農村を立て直すために、酪農、教育、医療、観光を組み合わせる方向へ進みました。
一方で川上村では、涼しい気候や昼夜の寒暖差を活かし、レタスを中心とする高原野菜の産地として発展していきました。
この転換には、背景があります。
戦後の食料増産期、川上村では国の開拓事業によって農地が整備されました。
当初は白菜が中心でしたが、ベトナム戦争下で米軍からの需要が高まったことをきっかけに、レタスの栽培が本格的に広がっていきます。
産地として選ばれた最大の理由は、夏でも冷涼で湿度が低いという川上村の気候でした。
さらに、高冷地でありながら千曲川の水源に近く水回りが良いことや、昼夜の寒暖差によって身の締まった美味しいレタスが育ちやすかったことも後押しとなりました。
こうした数々の好条件が重なったことで、現在の川上村を支える高原野菜の栽培がしっかりと根付いていったのです。
(ちなみに、関東と中国地方のモスバーガーに使われているレタスは、川上村でとれたものとのことです。)
川上村の公式サイトでも、農業・畜産業のページに農業情報がまとめられており、村の特産物であるレタスのPR事業としてプロモーション動画を制作したことが紹介されています。
清里がポール・ラッシュという外からの推進力によって農村再建の方向性を与えられたとすれば、川上村は地域の農業条件を内側から積み上げて、産地としての力を育てていったといえます。
観光に向かわなかったのは、失敗ではなく、農業で食べていける土台があったから、観光化する必要性が薄かった、ともいえるのです。
南相木村は、なぜ蓼科のようにならなかったのか?
川上村からさらに山あいへ目を向けると、南相木村があります。
ここは、川上村とも少し性格が違います。
川上村がレタスを中心とした高原野菜の産地として存在感を持っているとしたら、南相木村は、山と谷の暮らしがより濃く残る場所だといえます。
観光資源がまったくないわけではありません。
南相木村の公式サイトにも、観光スポットや自然体験、登山ツアー、立原高原キャンプ場、コテージなどの情報が紹介されています。
ただ、蓼科のように都市の人が泊まりに来る高原リゾートとして大きく包装された場所とは、少し違います。
南相木村の自然は、観光客に向けて演出された自然というより、暮らしに近い自然です。
人が住み、山に入り、湖を眺め、季節の変化を感じながら暮らしてきた場所。
そもそも南相木村は、地形的に外へ開きにくい場所です。
千曲川の支流、南相木川に沿って奥へ入る谷あいの地形で、村の面積の大半を山林が占めています。
蓼科や白樺湖のように、複数の方向から車でアクセスできる場所ではなく、道は基本的に一本。来た道を戻るか、険しい山道を越えるしかない。
こうした地形は、観光客の”ついで”を生みにくくします。近くの観光地を回りながら、自然と立ち寄る場所にはなりにくかったのです。
さらにいえば、林業と農業が生活の基盤だった南相木村にとって、山は観光のための景色である前に、暮らしの場でした。
観光地として整備されなかったのは、整えるべき経済的・地理的な動機が、蓼科ほど揃わなかったからともいえます。
大規模に開発されなかったからこそ、残った静けさがあり、観光地として整えられすぎていないからこそ、見える生活があります。
昭和の団体旅行の時代なら、それは弱点だったかもしれません。
でも今は、むしろ価値になり得ます。
人が多すぎない場所に行きたい。
有名観光地ではない村を歩きたい。
自然と暮らしが近い場所で過ごしたい。
そういう旅行者にとって、南相木村のような場所は、派手ではないけれど、かなり面白いはずです。
つまり南相木村は、蓼科のような泊まる高原リゾートにはならなかった。
けれどその代わりに、山と谷の暮らしに近い自然を残してきた場所なのだと思います。
まとめ
旅先で「なんとなく好きだな」と感じる場所には、たいてい理由があります。
その理由は、景色の美しさだけではなく、その土地が長い時間をかけて選んできた生き方と、どこかで共鳴しているのかもしれません。
小海線の本当の面白さは、標高の高さだけでなく、車窓の向こうに地域の生き方の変化が透けて見えるところにあると感じます。
清里のリゾート空間も、川上村の広大なレタス畑も、一見するとまったく別の風景です。
しかしそのどちらもが、この厳しい高原環境でどう生き抜くかという、地域ごとの選択が形になったものなのです。
ぜひ一度、小海線に乗車して、カメラを片手にのんびりと車窓を眺めてみてください。
ファインダー越しの景色がただの自然風景ではなく、厳しい自然と向き合ってきた地域の軌跡に見えてくるはずです。