宿命に翻弄された「クモとハエ」

愛は「宿命」を変えられるか。

このフレーズは劇団四季のミュージカルである『ノートルダム・ド・パリ』のテーマとして掲げられているもので、モデルとなった『ノートルダム・ド・パリ』はフランス文学の巨匠、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)によって書かれた小説です。『レ・ミゼラブル』でとても有名な小説家なので、みなさんの中にもユゴーの小説のファンだという人も多いかもしれません。小説の内容は非常に感動的で、登場人物がエスメラルダという一人のジプシー女性に翻弄される姿を描いた壮大なストーリー。

  • ジプシー娘のエスメラルダを自分のものにしたいという欲情から、拾い子のカジモドを使ってエスメラルダを掠おうとするという、人として道を踏み外した行動に出たノートルダム大聖堂の司教補佐・フロロ
  • エスメラルダを掠おうとしたのにもかからず、裁判で彼女にかばわれたことによってエスメラルダに好意を抱くようになったカジモド
  • カジモドから自分を守ってくれた衛兵フェビュスに恋心を抱くエスメラルダ
  • 婚約者がいるのにもかかわらず浮気を繰り返すフェビュス

といった恋の四角関係が『ノートルダム・ド・パリ』では描かれており、それぞれ登場人物が定められた「宿命」によって恋を叶えることができない儚さをユゴーは作中で表現しています。

作中にも多用されるように「宿命」は本作品においてカギとなるような言葉ですが、なかでも作中にて重要な役割を果たすキーポイントの例として、「クモとハエ」の関係が挙げられます。

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 これが万物の象徴だ。飛びまわっていて、楽しげだ。生まれてきたばかりなのだ。春の日射しを求め、自由を求めるのだ。おお!そうなのだ。だが、致命的な円花窓にぶつかる、クモが飛び出してくる。恐ろしいクモがな!哀れな踊り子よ!宿命に定められた哀れなハエだ!ジャック君、そのままにしておき給え!それは運命なのだ!

ヴィクトル・ユゴー著、辻昶・松下和則訳、『ノートル=ダム・ド・パリ』下巻、岩波書店(2016:99)

これは司教補佐のクロード・フロロが弟子であるジャック・シャルモリュに対して発した言葉を抜粋したものです。特に小説の下巻第7編よりフロロが登場する場面ではクモとハエが作中に登場することが多く、引用の部分は一匹のハエが日射しを求めてクモの巣に飛び込み、その罠にはまったハエをクモが捕食しようとしているところを見たジャック・シャルモリュがハエを救い出そうとしているのをフロロが引き留めている場面です。

ジャック君、そのままにしておき給え!それは運命なのだ!

このフロロの発言はハエがクモに食べられるという避けられない宿命を彼の哲学観になぞらえられており、フロロとエスメラルダの関係を象徴しているかのように思えます。ハエは日射しを欲しがる欲望によりクモの巣という罠にはまっていきクモに捕食されてしまう。同時にフロロはエスメラルダを欲しがる欲情に駆られ自らを破滅に追いやっていく。

クモの巣に引き寄せられ、クモの糸に絡まっているハエの様子は、エスメラルダを強く愛する自分の姿と彼女に対する愛を理解されないフロロの葛藤といった意味合いがあるのではないでしょうか。

☑ Point

エスメラルダに対するカジモド、フロロの愛、フェビュスに対するエスメラルダの愛、複雑に錯綜した登場人物の宿命はさながら糸の絡みつくクモの巣のようであると例えることができます。

「クモが飛び出してくる。恐ろしいクモがな!哀れな踊り子よ!宿命に定められた哀れなハエだ!」といった具合にフロロは短い文章を矢継ぎ早に発することによって、エスメラルダに対する強い執念とその運命を言い表しており、彼にとってこの捕食者と餌食という関係はあらかじめ定められた宿命であり変えられない、いや変えてはならない必然的なものだったのだといえます。

つまりフロロは自らをクモ、哀れなジプシーの踊り子であるエスメラルダをハエと、自分たちの関係を「クモとハエ」の関係と結び付けていたのです。したがって、厳密に言えば上記の引用部分はジャック・シャルモリュに向けて発したというよりはむしろ、フロロが自分自身に言い聞かせた劇的独白なのであると考えられます。


しかし面白いことに、この「クモとハエ」の関係は時に入れ替わることもありえるんです。エスメラルダの虜となったフロロのように彼がハエの役を演じる場面もあれば、エスメラルダと結ばれる宿命であることを口実にエスメラルダを罠にはめるクモの役を演じる場面もあるからです。

作品のクライマックスでエスメラルダの処刑をみていたカジモドの様子として、「男と娘との、いや、クモとハエとの、恐ろしい一組の姿をじっど見つめていた。」(p.544)とあり、フロロとエスメラルダの「クモとハエ」の関係を改めて読み手に強調させていることがうかがえます。


また作中においてとても特徴的なのは、登場人物の誰もがそうした自分たちの定められた「宿命」に対して抗おうとしなかったという点。そして誰しもがそのクモの巣のように複雑に絡み合った因果によって最終的に破滅する運命をたどっていくということです。

フェビュスを愛したいという強い欲望があったがためにフロロの罠にはまり破滅した(フェビュスを襲ったという無実の罪でエスメラルダは処刑された)エスメラルダ、

カジモドの養父に対する尊敬の意を抱く一方、好意を寄せていたエスメラルダを奪われ、彼女を間接的に殺したフロロに対する怒りと嫉妬との葛藤の末、カジモドによってノートルダム大聖堂の塔から突き落とされて死亡したフロロ、

そしてエスメラルダの処刑後自ら彼女の墓穴に行き、エスメラルダを抱いたまま死んだカジモド。

三人とも宿命に翻弄された悲惨な最期を迎えていますね。フェビュスはというと、この三人と比べると悲惨な終わり方はしていないものの、フルール・ド・リス(上で言及した婚約者のこと)と結婚するというある意味悲惨な終わり方をするのです。

 フェビュス・ド・シャトーペールもまた悲劇的な最期をとげた。結婚したのである。

ユゴー、(2016:551)

エスメラルダや他の女と浮気していて(例えばフェビュスはエスメラルダのことを他の浮気相手の名前であろう「シミラール」という名前で間違えて呼んだことがある)女たらしだったフェビュスにとって、結婚することが悲劇的だったことは言うまでもないでしょう。そしてこの婚約者がいたというのも逆らうことのできないフェビュスの宿命を表しているのです。

また物語の最後にはこのような後書きが書かれています:

 この骸骨を、その抱きしめている骸骨から引きはなそうとすると、白骨はこなごなに砕け散ってしまった。

ユゴー、(2016:554)

これは人々がエスメラルダの墓穴からカジモドとエスメラルダの骸骨を偶然見つけた場面ですが、引き離そうとされた挙げ句こなごなに砕け散った二人の白骨は、二人が決して結ばれることのできない宿命、ハエがクモに捕食されてしまうように抗えない「宿命」を表しているといえます。実際、カジモドとエスメラルダが骸骨となった姿で「再会」したシーンはなんとも皮肉な最期を物語っているといえるでしょう。

『ノートルダム・ド・パリ』はパリの街並みの様子や歴史など、小説の進行と直接的にはあまり関係ない脱線が多くてとても読みにくい小説です。実際に僕も読んでいく中で挫折しそうになったことが何度もあります。しかし、人間の心に潜むエゴイズムや「宿命」に翻弄される人間の儚さをユゴーは『ノートル=ダム・ド・パリ』で描いており、それこそがユゴーが作中で伝えたかったことなのではないでしょうか。

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