日本とウズベキスタン
パッと聞くと、「え、その2つの国に何か共通点なんてあるの?」って思いますよね。
ウズベキスタンはシルクロードの中心地。黄金色の砂漠が広がり、空を突くようなミナレットが印象的な国。対する日本はいわば深い霧に包まれ、絶えず波が打ち寄せているような島国です。
風景も文化もまるで対極にあるように見えるこの二国ですが、実はその奥底に、驚くほど強い絆が眠っているのです。
実際にウズベキスタンを歩いてみると、そこかしこで日本への親愛の情を感じて驚かされます。
街中やバザールで日本人だと分かった瞬間に、パッと花が咲いたような笑顔で迎えられるあの感覚。
「どうして、こんなに遠く離れた異国の地で、日本人がこれほどまでに愛されているんだろう?」
その答えを探っていくと教科書には載っていない、ある歴史の切ない、けれど誇り高い一ページにたどり着くんです!
「日本人のようになりなさい・・・」ウズベキスタンに残る日本人の遺産
1945年の夏、第二次世界大戦が終わろうとしていた時、中国の満州にいた数十万人の日本兵たちはようやく故郷に帰れると信じていました。
しかし、彼らを待っていたのは東へ向かう船ではなく、西へとひた走る列車だったのです。
行き先も知らされぬまま、ソ連領の奥地へと運ばれた人々。そのうちの約25000人が、遠く離れたウズベキスタンの地に降り立ちました。そこは、見渡す限りの砂漠と、見たこともない古都が広がる、完全な異郷でした。
当時のソ連にとって、彼らは単なる捕虜ではありませんでした。戦争の被害を埋め合わせるために強制労働させられていたのです。
これはその当時でも明らかな国際条約違反(1907年のハーグ条約やポツダム宣言の条項)でしたが、武器を取り上げられた彼らに拒絶する術はありません。
冬の凍てつく寒さ、底をつく食料、そしていつ終わるともしれない絶望。日本に戻るまで10年近くを費やした人もいれば、ついにその土を踏むことなく、異国の砂に眠った人も大勢います。

しかし、そんな極限状態にあっても彼らは自分たちの誇りだけは手放しませんでした。
ウズベキスタン全土に送られた彼らに課せられたのは、戦後の国づくりを支える過酷な建設労働でした。アングレンやベカバード、コーカンドといった各地で、彼らは泥にまみれながら橋を架け道を拓き、ダムを築き上げました。
アンディジャンでは学校や住宅の建設にも携わり、文字通りこの国の復興を土台から支えました。
『アングレンの思い出』吉野藤吉(石川県)によると、ウズベキスタンは3月中旬から11月中旬頃まで雨も夜露もほとんどない土地だったそうです。
毛布一枚の野宿生活と過酷な労働が続き、故郷を思う心を慰めたのは、満天の星と冴えわたる月の光だけだったと書き綴っており、当時の厳しさがひしひしと伝わってきます。
その数ある強制労働の中でもひときわ精緻で、今も両国の絆を象徴する生きた記念碑となっているのが、ウズベキスタンの首都・タシュケントにあるナヴォイ劇場(Alisher Navoiy nomidagi davlat akademik katta teatri / Navoi Theater)です。

ナヴォイ劇場はタシュケント中心部にある劇場です。1939年着工、1948年3月完成。終戦後は建設の真っ只中で、建設現場には毎日のように日本人たちが駆り出されていました。
劇場の基礎や骨組みは戦前に現地のウズベク人が施工済、日本人たちは内装や配線工事を担当させられました。
彼らの朝は、決まった時間に整然と列を組み、現場へと行進することから始まります。
まだ静まり返った街の通りに響き渡ったのは、軍靴の代わりに履いていた木製の下駄が、舗道を叩くカラン、コロンというリズミカルな乾いた音。
監視下に置かれた身でありながら、乱れることなく現場へ向かうその足音は、いつしか地元の人々にとって正確な一日の始まりを告げる目覚まし時計代わりになっていたそうです。
そして日が暮れる頃、再び同じリズムで響く足音が、街の人々に一日の終わりを知らせたといいます。
彼らが食事として与えられたのは、わずか300グラムの黒パンと、具のない水のようなスープだけ。それでも彼らは手を抜かず、黙々と誠実に働きつづけたといいます。そんな彼らの姿を現地の人々はじっと見ていました。
こんな逸話があります。ある時、収容所のフェンス越しに、一人の子どもがそっとパンと果物を差し出したそうです。数日後、その子が同じ場所へ行ってみると、そこにはなんと手作りの木のおもちゃが置かれていたとのこと。
目を輝かせて持ち帰った我が子に、母親はこう語りかけたといいます。
「日本人は勤勉で礼儀正しい。物を作るのもうまいうえに恩を忘れない人だ。あなたも日本人のようになりなさい。」

1997年、当時の閣僚であった麻生太郎がウズベキスタンを訪れ、イスラム・カリモフ大統領(当時)と対談した際、カリモフ大統領は子ども時代に接した日本人捕虜の記憶について、深い実感を込めてこう語りました。
捕虜収容所に連れていかれた。母親が私に言ったせりふは毎週末同じだった。
第183回国会 参議院 予算委員会 第16号 平成25年5月13日 pp.24 -25、2013年5月13日
せがれ、ごらん、あの日本人の兵隊さんを、ロシアの兵隊が見ていなくても働く、人が見なくても働く、おまえも大きくなったら必ず人が見なくても働くような人間になれ。
おかげで、母親の言い付けを守って、今日俺は大統領になれた。
このエピソード、僕も知った時は思わず目頭が熱くなりました。
その誠実さが奇跡を起こしたのが、1966年のことです。
タシュケントを襲った壊滅的な大地震。市内の建物の約7割が瓦礫と化すなか、あのナヴォイ劇場は、まるで何事もなかったかのように凛と立ちつづけていました。

この時、多くの建物が倒壊しましたが、ナヴォイ劇場はほとんど無傷でした
写真はKun.uz、“Землетрясение, сильнее чем в Турции: на исторических снимках стихия, потрясшая Ташкент в 1966 году“、2023年2月18日より引用
土台となる基礎工事の多くは現地のウズベクの人々が担ったものです。ただ、その上に積み上げられた一つひとつの作業に、日本人のあの愚直なまでの誠実さが宿っていなければ、これほどまでに頑強な劇場は完成しなかったでしょう。
それだけではありません。日本人労働者たちが建築に携わった他の建造物も、その多くが地震に耐え、無傷のまま残りました。家を失った人々にとって崩れなかった建物は、命をつなぐための最後の砦、避難所となりました。
極限の状況下にあっても決して絶望せず、未来の誰かのために石を積み上げた彼らの姿勢が、多くの命を救ったのです。
日本庭園で出会ったおじさんの話

2025年に僕がウズベキスタンのタシュケントに行った時、ヤポン・ボギ(Yapon bogʻi / 日本庭園)で写真を撮っていると、ソニーのカメラを手にしたおじさんが僕に話しかけてきました。僕がNikonの一眼レフを持っていたのと、日本人だということに親近感を持ってくれたのでしょう。
最初は「そのレンズいいですね」とか、「Nikonもいいじゃないか」なんて、お互いのカメラを見せ合いながら和気藹々と盛り上がっていたのですが、ふと僕がタシュケントのおすすめ観光スポットを尋ねた時、おじさんの表情が、少しだけ変わったのです。
ほんのわずかな沈黙、何か大切な思い出を慈しむような、どこか誇らしげな間を置いて、彼はこう答えました。
「ナヴォイ劇場は知っているかい?」
そして待っていましたと言わんばかりにこう語りました。
「あの劇場は日本人が建てたんだ。ウズベキスタンじゃ、知らない人はいないくらい有名な話なんだよ」
おじさんの話では、この物語は学校の歴史の授業でも取り上げられることがあるそうです。日本人が遺してくれた誠実さの証として、この歴史を大切に語り継いでいるのだと。
さらにそのおじさんは、少し目を細めてこう続けました。
「僕の親父もね、当時、日本人の兵隊たちが働いているところをよく見ていたんだよ。彼らがどれほど規律正しく、どれほど誠実で勤勉な人たちだったか……。親父は何度も僕に聞かせてくれた。本当に素晴らしい人たちだった、とね」
その言葉の端々から、世代を超えて受け継がれてきた深い敬意と温もりが伝わってきて、なんだか胸が熱くなりました。
遠く離れた日本から来た僕に、わざわざ歩み寄ってその想いを伝えてくれたこと。その事実そのものが、この地に今も息づく「日本への特別な情愛」を何よりも雄弁に物語っていたのだと感じました!
春に舞う桜 ― 異郷に眠る魂を見つめつづけて
タシュケント空港から94番か38番のバスに揺られるか、あるいは配車アプリYandex Goでヤッカサライ墓地(Yakkasaray Cemetery)に行くと、そこにはかつてのシルクロードの要衝に、静かに息づく日本の記憶が存在しています。
広大な公共墓地の一角に、第二次世界大戦後にこの地で亡くなった79人の日本人たちが眠る場所があります。
驚くべきは、ここを守り続けてきた人々の存在です。
ミラキル・ファジーロフ氏とそのお父さんは、40年以上の長きにわたり、無償でこの墓地を手入れしてきました。ソ連時代、この地で生涯を終えた日本人労働者たちは名前を刻むことすら許されず、ただ土が盛られただけの寂しい姿で埋葬されていたといいます。
しかし、ウズベキスタンが独立し、日本政府や遺族の想いが届いた時、ようやく石に名前が刻まれ、彼らは「名もなき捕虜」から「一人の人間」として故郷に向き合うことができたのです。
かつて、中山恭子元駐ウズベキスタン大使が日本から持参したという桜の苗木。
ミラキル氏がわが子のように献身的に世話し続けたその木は、今では彼の息子たちがその伝統を受け継ぎ、毎年春になると、優しく、静かに、眠る人々を包み込むように花を咲かせています。
僕が2025年4月にここを訪れたとき、一人のおじいさんが黙々と墓所を掃除していました。彼がフォジロフさん本人だったのかは分かりません。
でも、彼は僕の姿を見ると、穏やかな眼差しで一本の線香を差し出してくれました。言葉はなくとも、ここに眠る人々への敬意を分かち合っている・・・その確かな温もりを感じた瞬間でした。
墓石のそばに立つと、風化した石に寄り添うように置かれた、色とりどりの千羽鶴が目に飛び込んできます。誰かが一羽一羽、丁寧に、祈りを込めて折ったのでしょう。
かつて故郷に帰れなかった人々のもとへ届けられた日本の平和の象徴は、時間と距離、そして大陸を超えて、魂と魂を繋ぐ架け橋のように見えました。

手を合わせて祈りを捧げているとふと、聞き覚えのある言葉が耳に届き、顔を上げます。そこには、僕と同じように祈りを捧げに来ていた日本人観光客のグループがありました。
ガイドが語る歴史に耳を傾けていた彼らが、一人で佇む僕を見て少し驚いたような顔をしました。こんな遠い異国の、それも厳粛な場所で若い旅行者に出会うとは思っていなかったのでしょう。
けれど、この場所はもはや悲しみの地だけではありません。 この墓地の向かいには、日本人抑留者の足跡を伝える博物館があります。1998年の開館から時を経て、2024年には施設が全面的にリニューアルされました。
展示されているのは、写真や文書、ボロボロになった作業服だけではありません。地元の市場で売るために、限られた道具で作ったという木製のベビーベッド。そこには、極限状態にあっても失われなかった、人としての優しさと誠実さが宿っています。
幸いなことにこの物語は今、ウズベキスタンの映像作家たちによって、新しい未来へと語り継がれようとしています。2019年のドキュメンタリーに続き、現在は両国の俳優たちが共演する長編映画『桜の香り(Аромат сакуры / Sakura Scent)』の制作が進んでいるそうです。
タシュケントに息づく日本文化

日本文化は現代のタシュケントでも共鳴し続けています。
市内で最も穏やかな時間が流れている場所を挙げるなら、それは間違いなく先程お話しした、街のシンボルであるテレビ塔(タシュケントタワー)のすぐ隣にある日本庭園ヤポン・ボギでしょう!
入場料は30000スム(約300円)。静かで混雑していないスポットで、リラックスした訪問に最適です。錦鯉の池、赤い橋、丁寧に手入れされた松の木があって、伝統的な日本の美学の一片を体験できます。
伝統的な日本庭園の美学を完全に捉えているわけではないかもしれないけど、地元の人々には静かな憩いの場として愛されています。キルギスやカザフスタンのような近隣諸国からの旅行者も多く、日本庭園の穏やかな雰囲気を楽しみに来ているのです!
日本料理もタシュケントに根付いています。市内のレストランでは本格的なラーメン、寿司、天ぷらが提供されていて、地元の人々と観光客の両方を魅了しています。
日本のポップカルチャーはウズベキスタンの若い世代に絶大な人気を誇っています。アニメやマンガ、J-POPが非常に人気で、特にワンピースと呪術廻戦はとても有名であり、若者を中心に国中で広く視聴されています。
文化外交から日常のエンターテインメントまで、日本の影響はタシュケントの生活の中で馴染み深く、歓迎される一部となっているわけですね!
地図を広げれば、日本とウズベキスタンは地理的にも文化的にも、遠く離れた別世界のように見えるかもしれない。
けれど、その表面的な距離の奥底には、驚くほど深く、温かい絆の根がしっかりと張り巡らされています。
かつて、過酷な運命に翻弄されながらも抑留者たちが流した汗。そして、その誠実さを慈しみ、今日まで大切に語り継いできたウズベクの人々の真心。。。
そんな目に見えない積み重ねが、いま、アニメを楽しむ若者たちの笑顔や、静かに花を咲かせる日本庭園の風景へと鮮やかに繋がっているのです。
ウズベキスタンを旅すれば、その圧倒的な歴史や息を呑むほど美しい景色に、何度も心を奪われるハズ。でも、ふとした瞬間に、この国と日本を今も繋いでいる”見えない繋がり”のことを、そっと想像してみてください。
その繋がりに気づいたとき、ただの綺麗な景色だった場所が、ずっと昔から知っていたような、特別な場所へと変わるはずです。そんな一瞬こそが、この国を旅する真の醍醐味なのかもしれません。