サマルカンドという街は、これまであなたが読んできた通り、大地の恩恵を受け(第1章)、青に魂を与えられた都市(第2章)でした。
ですが、、、
ここまではあくまで 古代から中世までのサマルカンド の話です。
僕たちが旅で目にしている、
「鮮やかな青が広がるサマルカンド」
「整ったレギスタン広場」
「観光都市としての顔を持つサマルカンド」
その多くは、実は 20世紀に生まれ変わった姿だということを知っていましたか?
意外に思えるかもしれませんが、現代のサマルカンドの“かたち”を決めた最大の要因は、ソ連時代の都市政策だったのです。
え、ソ連って宗教を弾圧したんじゃないの?
サマルカンドの宗教建築も壊されたのでは?
。。。そう感じるのは自然です。
ところが歴史をのぞいてみると、まったく逆の光景が広がります。
ソ連はサマルカンドの宗教建築を壊さなかった。それどころか、莫大な予算と技術を投じて積極的に修復し、都市を再構成さえしたのです。
もちろん、それは純粋な文化保護の精神からだけではありません。 そこには、ソ連らしい冷徹かつ合理的な政治的計算がありました。
今回は、青の都の美しさに隠された、ソ連時代の「再編集」の歴史を紐解いていきます!
- ソビエト連邦という時代
- なぜ無神論国家ソ連が、サマルカンドを”守った”のか?
- なぜサマルカンドは特に“保存対象”となったのか?
- しかし、現実はもっと複雑だった
- 皮肉にも、ソ連のおかげで残ったサマルカンド
- サマルカンドという街が教えてくれること
ソビエト連邦という時代

本編に入る前に、少しだけ時代を振り返っておきましょう。
ソビエト社会主義共和国連邦、通称ソ連。
1922年から1991年まで続いた、世界初の社会主義国家です。現在のウズベキスタンも、この連邦を構成する共和国の一つでした。
ソ連を理解するうえで欠かせないキーワードが 国家無神論です。
無神論とは簡単にいうと、「神なんてものはこの世に存在するわけがない!」という考え方です。
マルクス主義を掲げたソ連は、宗教を「人々を現実から遠ざけるもの」とみなし、宗教活動を社会の前進を妨げる“旧時代の名残”として扱いました。20世紀前半には多くのモスクが閉鎖され、宗教教育は制限され、宗教儀式は厳しい監視下に置かれました。
ところがです。
「宗教には批判的だったはずのソ連が、なぜイスラーム建築の宝庫・サマルカンドを壊さず、むしろ修復までしたのか?」
旅人が必ず抱くこの疑問こそ、今回のテーマです。
なぜ無神論国家ソ連が、サマルカンドを”守った”のか?

今のように観光客は殆どいなかった
撮影者:Thomas Taylor Hammond, 1964 — Wikimedia Commons / © CC-BY-SA 4.0
サマルカンドを歩くと、誰もが同じ違和感にぶつかります。
レギスタン広場の輝くタイル。
シャーヒ・ズィンダに並ぶ霊廟の青。
ティムール朝の威厳を伝える巨大な建築群。
本来なら宗教施設として扱われ、破壊されてもおかしくない建物が、驚くほど良い状態で残っているのです。
しかし歴史を見つめてみると、そこにはソ連特有の複雑な文化遺産政策がありました。
さて、ソ連の宗教政策は非常に厳しいものでした。
- 1920~30年代には多くのモスクが閉鎖・破壊
- 宗教教育は禁止
- 宗教指導者は監視対象
- ヒジャーブ禁止など、生活への介入も強化
こんな感じでソ連では宗教は厳しく弾圧されており、違反すると強制収容所に収容(俗にいうシベリア送り)されることも多々ありました。
しかしその一方で、ソ連の宗教政策は破壊一辺倒ではなかったのです。
実はソ連は現地住民の反乱リスクを避けるため、イスラム教を厳しく管理しつつも完全には弾圧せず、一定の存在を黙認していたのです。
ソ連と一言でいっても、中国みたいに他民族で成り立っていた上に、ムスリム人口が非常に多かったので、国としても反乱リスクには常に気をつけなければなりませんでした。
またソ連当局は「宗教=民族性の一部」と考えていたので、宗教の規模や外国勢力とのつながり、その民族の従順さに応じて扱いを変え、小さくて民族色が強く外部と結びつく宗教ほど厳しく取り締まっていました。(カトリック教会等)
そしてさらに歴史的・芸術的価値の高い建築物は、宗教施設としてではなく “文化遺産” として保護の対象になることがありました。
サマルカンドの主要建築群、つまりレギスタンのマドラサ、シャーヒ・ズィンダ廟群、ビビハヌム・モスクなどは、まさにこの “文化財” として再分類された建物なんです。
たとえばレギスタン広場は、20世紀中盤から後半にかけて大規模な修復が進みました。崩壊寸前だったタイルは張り替えられ、建物の土台は補強され、長い年月で堆積した土砂も取り除かれました。
つまりソ連にとって、これらは 宗教施設ではなく「展示すべき歴史・芸術作品」 だったのです。
なぜサマルカンドは特に“保存対象”となったのか?
サマルカンドが特別に守られた理由は、じつは単純ではありません。いくつもの要素が重なり合った結果でした。
① 建築的・歴史的価値が圧倒的に高かった

ティムール朝の建築は、中央アジア文化の象徴ともいえる存在です。
その歴史的・芸術的価値の高さから、ソ連の文化担当機関は宗教性を切り離した上で、「歴史的建造物」「民族文化の遺産」として評価し、積極的に保存対象としました。
② 国際的な“見栄え”のため
ソ連は国際社会に対して「古代文化もきちんと保護している文化国家」であることを示す必要がありました。その点、世界的に名の知られたサマルカンドは、まさにうってつけの“ショーケース”だったのです。
1960年代に導入された歴史都市保存政策(New Heritage Status Policy)はその流れを後押ししました。
この政策では、宗教建築であっても旧市街全体を歴史遺産として保護するという新しい考え方が採用されていました。
当時はフルシチョフ期のいわゆる雪解けの時代。
国際交流や文化活動が広がる一方で、文化財を共産主義教育や観光資源として利用する政治的再編も進むという、開放と統制が共存した独特の空気がありました。
1961年にはウズベキスタン共和国文化省が旧市街保存計画を策定し、まずブハラで実施。1965年の計画書(ブハラプラン)には、
「古代の遺産は現代都市の発展の不可欠な一部である」
という文言が明記され、旧市街55ヘクタールが保存区域に指定されました。新築は原則禁止、建てる場合も二階建てまでという制限も設けられています。
さらにこの政策は観光政策とも連動しており、旧市街の一部を“歴史のショーケース”として整備。訪問者が短い滞在でも古代都市の雰囲気を体験できるように設計されました。
ソ連後期には、サマルカンドは「シルクロードの都市」として観光的価値が高いと評価されることに。保存は経済面でも利益があると判断され、修復・整備はさらに加速していきます。
サマルカンドのレギスタンやシャーヒ・ズィンダ廟群が集中的に修復されたのも、この政策の延長線上にあります。
またこれに加えて1950年代以降、中央アジアの歴史学者・建築家・文化人たちが、地域文化の保護を強く訴えたことにより、この地元の声が政策に影響を与え、保存事業の拡大につながっていきました。
しかし、現実はもっと複雑だった
重要なのは、「サマルカンドの宗教建築が残された」=「宗教が尊重された」ではないという点です。先程お伝えしたように実際には、
- モスクとしての機能は停止
- 多くが博物館・展示施設に転用
- 宗教儀式は禁止・制限
- 保存される建物は“選別”されていた
- 多くの小規模なモスクは破壊・放置
という現実がありました。
つまりソ連はサマルカンドを“信仰の場”としてではなく、“宗教性を抜いた歴史の展示物”として建築を保護したのです。
皮肉にも、ソ連のおかげで残ったサマルカンド

1974年のシャーヒ・ズィンダ廟群
なかなか綺麗な状態で管理されていることがわかる
Jaan Künnap氏(Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0)より引用
ソ連が掲げていた無神論政策は、多くの宗教施設にとって厳しいものでした。多くのモスクが閉鎖され、祈りの場が失われていったからです。
しかしその一方で、歴史文化を“展示物”として扱う方針があったからこそ、レギスタンをはじめとする名建築は破壊されず、むしろ大規模に修復されて残されました。
実際、サマルカンドで年配の方々に話を聞いてみると、ソ連時代は決して単純に「良かった or 悪かった」の二択では語れないことに気づきます。
「宗教は弾圧された。でも建物は残った。」
「生活は安定していた。仕事もあった。」
「アメリカに唯一対抗できる超大国の一員だったことを誇りに思っていた。」
そこには悲しみと誇り、喪失と安心。。。その両方が同時に存在していました。
だからこそ、ソ連時代を懐かしむ声もあれば、痛みを語る声もある。その揺れる記憶が、街の歴史にさらに厚みを与えています。
無神論国家がイスラム都市の建築美を守ることになったという、歴史の皮肉。その矛盾こそが、サマルカンドという街にいっそうの奥深さを与えているのです!
サマルカンドという街が教えてくれること
サマルカンドを旅していると、歴史って決して点でも直線でもなく、矛盾と偶然と皮肉が複雑に絡み合ってできているのだと実感します。
第1章では、地理が街を生かし続けたこと。
第2章では、人々の美意識が青の文化を育てたこと。
そして第3章では、無神論国家が皮肉にもイスラム都市の美を守ったこと。
どれか一つでも欠けていたら、僕たちがいま歩いているサマルカンドは存在しなかったかもしれません。
歴史はいつも誰かが思い描いた筋書きどおりに進むわけではありません。むしろ、「そんなこと起きるの?」という予想外の積み重ねで形が決まっていきます。
そして、その予測できなさこそが旅を面白くしてくれるのだと思います。サマルカンドはその典型のような街だといえるでしょう!
もし、この三部作を読んで、いつか本当にサマルカンドを訪れることがあったら、青いタイルを見上げながら、少しだけ思い出してみてください。
「この青さは、信仰だけでも、文化だけでも、政治だけでも説明できない。いろんな時代の、いろんな人たちが選んできた“積み重ね”の結果なんだ」と。
そう思えた瞬間、サマルカンドはきっとただの観光スポットではなく、2500年分の物語が息づく“生きた街”として目の前に立ち上がってくるはずです!