【ヴィクトル・ユゴーが描く格差と罪】:悪いのは個人か、社会か?

現代社会を見ていると、時折こう感じることがあるのです。

悪いのは本当に“その人”なのだろうか?」と。

たとえば、経済的に追い詰められて罪を犯した人、あるいは周囲の偏見によって居場所を失った人。彼らを「悪」と切り捨てるのは簡単。しかし、その背景には必ずといっていいほど、見えない社会の圧力や制度の欠陥が潜んでいるといえます。

こうした“社会の中で生まれる罪”を鋭く見つめたのが、フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーVictor Hugo, 1802 – 1885)です。

フランスの文豪、ヴィクトル・ユゴー

レ・ミゼラブル』や『クロード・ギュー』、『ノートルダム・ド・パリ』をはじめ、彼の物語には「罪を犯した人間」が必ず登場します。しかしユゴーは、単に彼らを“悪人”として描くことはないのです。むしろ、彼らの行動の奥にある苦しみや不正義を通して、「本当に罪深いのは誰なのか」という問いを読者である僕たちに投げかけてきます。

たとえば『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンは、飢えた家族のためにパンを盗み、長い歳月を牢獄で過ごした。『クロード・ギュー』では、教育を受けられず、貧困の中で家族を養うためにパンを盗んだ男クロードが、刑務所で不条理な扱いを受け、ついには殺人を犯してしまう。。。

その結末でユゴーは、読者に問いかけるのです。「罪を犯したのはクロードか、それとも彼を追い詰めた社会なのか」と。

同じ構図は『ノートルダム・ド・パリ』にも見られます。無実の罪で群集に”魔女”と断罪され、処刑されるエスメラルダは異端視される存在として偏見の的となり、愛や正義を求めながらも、結局は“歪んだ社会”に押し潰されていく。

『エスメラルダの死』― ニコラ・ユスターシュ・モーリン(Nicolas Eustache Maurin, 1834)

ユゴーは彼女を「悲劇のヒロイン」としてではなく、社会の偏見が生み出した犠牲者として描いています。

彼らを“罪人”とする社会は、果たして正しかったのでしょうか?

ユゴーの作品に通底するのは、「人は生まれながらに罪人ではない」という信念であるといえます。

貧困、教育の欠如、差別、制度の不備・・・そうした環境が、人を“罪人”に仕立て上げてしまう。

だからこそユゴーは、文学を通して社会を裁き、教育と司法の改革を訴え続けてきました。ユゴーの筆はただの物語ではなく、社会への告発状だったともいえるのです。

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  1. 社会が人を追い詰める構造は、いまも変わっていない
  2. SNS社会の“新しい断罪”

社会が人を追い詰める構造は、いまも変わっていない

ユゴーの時代から200年が経った今でも、ジャン・バルジャンやクロード、エスメラルダは姿を変えて現代に存在しています。日本だけではなく世界中で教育や経済の格差は広がり、貧困が新たな分断を生んでいます。

そして、『レ・ミゼラブル』の中でユゴーはこうも述べています。

 「教育を受けられない人々には、できる限り多くのことを教えなさい。無償教育を与えない社会こそが悪い。人が罪を犯すのは無知という闇のせいであり、本当に責められるべきは罪を犯した個人ではなく、その闇(無知・貧困)を作り出した社会なのだ。」
A ceux qui ignorent, enseignez-leur le plus de choses que vous pourrez ; la société est coupable de ne pas donner l’instruction gratis ; elle répond de la nuit qu’elle produit. Cette âme est pleine d’ombre, le péché s’y commet. Le coupable n’est pas celui qui fait le péché, mais celui qui fait l’ombre. 

Les Misérables, I, 1, 4, Roman II, p. 14.

この言葉は200年経った今でも重く響きます。

日本でも、教育や経済格差は依然として深刻です。たとえば、ひとり親家庭の子どもの貧困率は高く、十分な教育機会を得られずに成長する子どもが少なくありません。

「努力が足りない」といわれることもあります。確かに、人生の多くは自己責任であり、自分の道は自分で切り拓く必要があります。

しかし、それ以前にそもそも努力するための環境が整っていない場合が多いのです。

また、社会の歪みは労働の現場にも現れます。

非正規雇用の増加、長時間労働、賃金格差、、、こうした環境の中で、個人の努力だけではどうにもならない壁に直面する人々(特に氷河期世代)がいます。ユゴーが描いた「無知や貧困という闇」は、現代社会でも姿を変えて存在しているのです。

日本の実質賃金が30年間殆ど横ばいだったのはいったい誰の責任か?
いったい誰がこのような社会にしたのか?
いったい誰がこのような社会になることを許したのか?
グラフは、厚生労働省. (2021). コラム1-3-①図 G7各国の賃金(名目・実質)の推移 より引用

彼の作品を読むことで、僕たちは単なる文学の楽しみだけでなく、「社会が人間にどのような責任を負うべきか」という根源的な問いに向き合わされます。ユゴーは、時代を超えて僕たちにこう問いかけているのです。

真に罪深いのは誰か。個人か、それともその人を追い詰めた社会か」と。

それでも僕たちは、貧困や失敗を自己責任として片づけてしまいがちです。勿論、人生の多くは自分自身の選択や努力に委ねられる面があります。しかし、ユゴーならこういうのではないでしょうか?

「あなたが裁いているその人を、まず社会がどう育てたかを見よ」と。

SNS社会の“新しい断罪”

さらに現代では、SNSという新たな“法廷”が誕生。そこでは法も証拠も関係なく、誰もが「裁く側」になれる。一度炎上すれば、社会的な死が訪れることもある。

かつて群衆がエスメラルダという”魔女”を吊るしたように、現代の群衆はスマホ越しに他者を断罪する。

この構造もまた、『ノートルダム・ド・パリ』のエスメラルダが群衆によって処刑された場面と重なって見えます。

偏見と感情が正義の名を借りて暴走するとき、社会はいつだって冷酷になるのです。

ユゴーが求めたのは「罰」ではなく「理解」でした。人を責める前に、なぜその人がそのような状況に追い込まれたのかを考えること。その視点こそ、社会をより良くする第一歩なのではないでしょうか?

現代に生きる僕たちも同じ問いに直面しています。貧困に苦しむ子ども、過労で倒れる労働者、SNSで追い詰められる若者。。。

彼らを単に「弱者」や「被害者」として見るだけでは不十分でしょう。むしろ、彼らを生み出している社会構造そのものを見つめ直す必要があると思いす。

ユゴーが19世紀に訴えたことは時代を超え、現代の倫理の根幹を突いているといえます。それは、「個人を責める前に、社会の責任を問え」という、シンプルでありながら最も難しい命題です。

そしてこの問いにどう答えるか、、、それが、ユゴーから現代を生きる僕たちへの宿題であり、現代社会を生きる上での課題でもあるのです。

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