かつてソビエト連邦という巨大な国の一部だったウクライナとウズベキスタン。
1991年のソ連崩壊とともに独立したという点では共通していますが独立以降、ロシアへの態度は真逆ともいえるほどに分かれました。
ロシアと実際に戦争状態にあるウクライナをはじめ、ジョージアやアルメニア、バルト三国など、旧ソ連に属していた国々の中にはロシアに対する強い反感を抱き、距離を取ろうとする動きが加速している国も少なくありません。

緑の線がロシアに肯定的な人の割合の推移を、赤の線がロシアに否定的な人の割合の推移を現している
画像はギャラップの記事(Empire’s Twilight? Russia Loses Support in Its Own Backyard, 2023.5/24)より引用
このデータからも明らかなように、多くの旧ソ連諸国でロシアへの支持は急速に低下していますが、ウズベキスタンやキルギスでは依然としてロシアに対して好意的な世論が根強く残っています。
- ウクライナ:断固たる反露姿勢をとり、EU・NATOへの接近を進める
- ウズベキスタン:ロシアとの友好関係を維持しつつ、ウクライナ侵攻に対しても強い非難は避ける
同じ旧ソ連構成国だったのに、ウクライナとウズベキスタンの対ロシア感情は、なぜここまで対照的なのでしょうか。その鍵は地理的状況は勿論、「ソ連支配の記憶」が両国でまったく異なるかたちで蓄積されたことにあります。
抑圧か近代化か? 旧ソ連圏の中で分かれるロシア観
18世紀のロシア帝国による併合以降、ウクライナはロシア(および後のソ連)から文化的・政治的な同化政策を繰り返し受けてきました。
19世紀末にはウクライナ語の出版物が禁止され、ロシア語の強制が推進。ヴァルエフ指令やエムス法により、ウクライナ語の本だけではなくウクライナ語の劇や歌謡、講演までも禁止するという弾圧処置が行われていました。
さらに1920~30年代には、民族主義者や知識人に対する弾圧が行われ、ウクライナの文化・学問は大きな打撃を受けます。
特に1932~33年のホロドモールでは、スターリン政権によって人為的に引き起こされた飢饉により、数百万人のウクライナ人が命を落としました。多くのウクライナ人は、これをソ連による意図的なジェノサイド(民族大量虐殺)と捉えており、現在に至るまで深い歴史的トラウマとなっています。

こうした経緯から、ウクライナではロシア=加害者・抑圧者という記憶が強く、ソ連崩壊後の独立も「やっとロシアから自由になれた」と捉える人が多かったのです。
ただし、ウクライナ東部やクリミアなどロシア人の割合が多い地域はこの限りではありません。
一方で、ウズベキスタンは19世紀後半にロシア帝国に征服され、1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国としてウクライナ同様、ソ連の一部になります。
この過程でも、イスラム的価値観や伝統的な生活様式の抑圧や綿花栽培への強制労働、文化財の破壊やロシア語の優遇政策などの、ある種の植民地的支配ともいえる側面は存在しました。
ソビエト時代、政府はウズベキスタンを含む全域で宗教活動を厳しく統制し、多くのモスクを閉鎖・転用するとともに、イスラム教育を国家が指定した少数の機関に限定し、公式の聖職者には当局への情報提供を義務付けるなど、宗教を国家管理下に置きました。
ウズベキスタンはムスリムの割合が約96.3%と非常に高く、主要民族であるウズベク人の多くが伝統的にイスラム教を信仰してきました。そのため、イスラム文化や価値観が国民生活に深く根付いており、ソ連時代の宗教弾圧や統制に対しては強い反発もあったと考えられます。

しかし他方で、学校制度の導入により識字率があがり、医療・インフラの整備が行われ、女性の教育・社会進出の推進といった側面も同時に進み、特に地方の人々にとっては、ソ連支配が近代化の扉を開いた出来事として肯定的に記憶されているケースも少なくありません。(なんとソ連は大学の学費が無料だった!)
実際に僕がウズベキスタンのタシュケントで出会った現地のおじさんは、こう語ってくれました。
「ソ連に対するウズベキスタン人の評価は、一概に悪いとは言えない。確かに多くの人々が弾圧され、命を落としたことは事実だ。でもそれと同時に、ソ連はウズベキスタンに地下鉄や道路、病院といった生活インフラを整備してくれた。だからこそ、ソ連を肯定的に見る人もいれば、否定的に見る人もいるんだよ」と。
彼の言葉からは、ソ連支配の複雑な記憶と、現地の人々の間にある評価の分かれを感じ取ることができますね。
ちなみにインターネットで調べたところ、朝日新聞GLOBE+にも同じようなことを書いてある記事がありました。
ソ連時代に言論統制や宗教弾圧といった抑圧があった一方で、教育や医療、インフラ整備による安定した生活ももたらされたという評価があり、特に高齢層を中心に「自由はなかったが生活は安定していた」と肯定的に捉える人も多く、ウクライナなどとは異なりロシアを一方的な加害者とみなす認識は、ウズベキスタンでは一般的ではないようです。

ソ連時代に弾圧されて処刑されたウズベキスタン人を追悼している
ソ連崩壊後、ウクライナは民主化を志向しつつも、政治腐敗と経済の混乱に長年苦しみました。
一方ウズベキスタンは、初代大統領イスラム・カリモフによる権威主義的な強権統治を続けることで、治安と安定を保ちました。
その結果、人々の記憶の中で、
- ウクライナ:ソ連崩壊=苦難の始まり → 反露感情が強まる
- ウズベキスタン:ソ連時代=苦しくも安定していた時代 → 親露感情が残る
という真逆の印象が形成されたのです。
「親露」と「反露」の地政学的背景
冒頭でも触れた統計を見ていただければわかる通り、反ロシア的な姿勢を強めている国々には、ある共通点があります。
それは、ロシアと国境を接しているということです。実際、これらの国々では領土をめぐる対立や緊張がたびたび発生しています。(ウクライナやエストニアなど)
一方で、ウズベキスタンやキルギス、タジキスタンのようにロシアと直接国境を接していない国々では、ロシアとの対立や緊張はどこか遠い国の出来事のように受け止められていることも少なくありません。
国境を接していないといっても、ウズベキスタンとロシアの最短距離はおよそ500km。中国に至っては、最短で100kmしか離れていません。これは東京から伊豆までの直線距離とほぼ同じくらいです。これに対して、西欧の国々からウズベキスタンまでの最短距離は約3000kmもあります。
ウクライナはちょうどロシアと西欧諸国の真ん中に位置している国。だからこそ、中央アジアとは違って西欧の価値観が日常に溶け込みやすく、特に中部や西部では歴史的な経緯もあってロシアよりヨーロッパと手を組みたいと感じている人が非常に多いのです。

こうした地理的な背景を考えれば、ウズベキスタンは中露と手を組む方が現実的であり、むしろ経済的・政治的にも大きなメリットがあると感じる国が出てくるのは自然なことです。距離が近いというだけでなく、歴史的な結びつきや経済的な依存関係も影響しているのです。
僕がタシュケントで出会ったおじさんのように、現在でもウズベキスタンではお年寄りの世代を中心にソ連時代を懐かしむ声が少なくありません。あの時代は生活が安定していて、様々な民族が共存しながら超大国としての誇りを持って暮らしていた、とノスタルジーに浸りながら話してくれます。

「日本やロシアは大好きだが、アメリカや中国はとても問題だ」と語っていた
中央アジアとロシアは切っても切れない縁であることを痛感する
とはいえ、すべてが美しい思い出というわけではありません。言論の自由や宗教の自由が制限されていたこと、そして日常的な物資不足もまた多くの人々の記憶にしっかりと刻まれています。
ソ連の終わりが近づいた1990年前後、バルト三国やジョージアなどではソ連からの独立を強く求める動きが活発になっていましたが、中央アジアでは事情が少し異なっていました。実のところ、当時の中央アジア諸国では、そこまで独立を強く望む声が多数派だったわけではなかったそうです。
(小松久男、荒川正晴、岡洋樹、『中央ユーラシア史研究入門』、株式会社山川出版社、2018年4月20日)
しかし、時代の流れは急速に変わっていきます。ソ連という巨大な体制が崩れ始めると、その影響は中央アジアにも波及しました。そして最終的に、中央アジアの国々も独立という選択をすることになったのです。
経済的結びつき
中央アジアの国々とロシアの関係を語るとき、政治や歴史だけでなく、人の流れや生活の現実も無視できません。
たとえばウズベキスタンでは、200万人以上の人がロシアなどで働いており、まさに“出稼ぎ国家”といわれるほど。ウズベキスタンのGDPの10%以上が、ロシアへの出稼ぎ労働者からの送金で成り立っているともいわれています。
ウズベキスタン(イスラム・カリモフ)やタジキスタン(エマルリ・ラフモン)は長年にわたる独裁政治により、市場経済がなかなか活発化しない状況にありました。そのためロシアに出稼ぎへ行く人が増えたのです。旧ソ連だったのでロシア語はほとんど全員話せます。
ロシアの経済は、単に“外国”の話ではありません。ウズベキスタンの多くの家庭にとっては、夫や息子が働いて送金してくる“生活の場”そのもの。ニュースで見る国際政治の裏側には、そんなリアルな人々の暮らしが広がっています。
そしてその傾向がより顕著なのがタジキスタン。実は、タジキスタンでは国民の5人に1人以上、労働可能な人に限れば約4人に1人がロシアに出稼ぎに行っています。2019年には、出稼ぎ労働者からの送金額が26億ドルを超え、GDPの28%を占めました。ちなみに、2012年にはその比率がなんと52%にも達したことがあるそうです。
このように、労働者たちは国の経済を支える最大の輸出品ともいえる存在。つまり、中央アジアの国々にとってロシアとの関係は単なる外交問題ではなく、国民一人ひとりの生活に直結する切実な問題なのです。もし両国の関係が急激に悪化すれば、最も影響を受けるのは国境を越えて働く人々と、その家族たち。
政治の表舞台では語られにくいこの人のつながりこそ、中央アジアとロシアを結ぶもう一つの現実なのかもしれません。
対してウクライナは2014年のクリミア併合以降、西側(NATO)との経済的結びつきを急速に強化しており、ロシアに依存しない体制にシフトしています。
情報環境とメディアの違い
ウクライナでは、西側メディアへのアクセスが比較的自由で、SNSや独立系メディアを通じた多様な情報に触れることができます。そのため、ロシアのプロパガンダに対する免疫も高く、国民の多くは自ら情報を選び、判断する習慣が根付いています。
一方、ウズベキスタンでは少し事情が異なります。今でもロシア語のメディアが主流で、特に高齢層の中には、ロシア国営テレビだけを見て日々の情報を得ているという人も少なくありません。
テレビだけでなく、検索エンジンや地図アプリもロシアのYandex社のものが多く使われており、日常生活の中で自然とロシア発の情報に囲まれているのです。
その結果、ウクライナ戦争に対する見方にも大きな違いが生まれています。
ウズベキスタンでは、「NATOの東方拡大が原因」「ウクライナはロシアという兄弟を裏切った」といった、ロシア政府が発信する主張をそのまま信じる人(特に高齢者)が一定数存在しています。情報源が偏っていることで、戦争の背景や現状についての理解にも偏りが生じてしまうのです。
勿論、全員がそうではありません。都市部の若者を中心にSNSやYouTubeなどを通じて、複数の視点から世界を見る人も増えてきています。しかし、国全体として見れば、情報環境はまだまだ”ロシア寄り”であることは否定できません。
このような情報の境界線が、国民の認識や外交姿勢にも影響を与えていると考えると、戦争という出来事の捉え方が、いかに身近な生活環境に左右されるかが見えてきます。
まとめ
ウクライナとウズベキスタンはどちらもかつてソ連の一部だったという点では同じです。
しかし、その「ソ連」という過去の記憶が、両国の人々に与えた印象や、独立後に直面した現実、そしてロシアとの現在の関わり方はまったく異なるものになっています。
ウクライナは歴史の痛みと西欧からの影響を背に、ロシアとの決別を未来への一歩と捉えています。一方で、ウズベキスタンは経済的な依存や社会的なつながりを踏まえ、ロシアとの共存を安定の鍵と見なしているのです。
同じ過去を持ちながらも違う道を歩む両国。その姿は地理的条件だけでなく歴史的背景と生活が、国の選択を大きく左右することを物語っているといえるでしょう。
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