日本人は無宗教だ。
こんな言葉を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
日本人にとって宗教とは、よくわからないものだったり、身近に存在しない、あまり生活に深く根付いていないもののように感じることが多いのだと感じます。なのでそういった印象が強いのも無理はありません。
しかし実際、日本人は本当に「無宗教」なのでしょうか?
大学の授業の時、フランス人の先生が、「日本人は無宗教だと言っているけど、本当は不可知論者なんだと思いますよ。」と話していたとき、思わず納得してしまいました。自分の中でずっと何となく感じていた違和感が、少しすっきりした気がしたのです。
多くの人が「無宗教」と思い込んでいるかもしれませんが、その考え方には誤解があるのではないかと思うのです。実は、日本人の多くは「無宗教」ではなく、「不可知論者」に近いのです。
海外旅行に出かけると、各地の宗教施設を訪れることがあるでしょう。こうした宗教施設を理解することや、自分自身のアイデンティティを再確認するためにも、自国の宗教観を知ることはとても大切なことだと思います。
今回は、「日本人は無宗教」といわれることが多いけど、その認識が大きな間違いである理由についてお伝えしていきます!
無宗教と不可知論者の違い
「無宗教」と「不可知論者」
この二つの言葉は一見、同じように感じられるかもしれませんが、実はその意味には大きな違いがあります。
まず無宗教(Irreligion)というのは、特定の宗教を持たない、または信仰そのものを否定する立場を指します。
つまり、神や宗教の教えを信じず、宗教的な儀式や教義には興味がないということで無宗教の人は宗教に対して無関心であり、生活に取り入れることもありません。

たとえばわかりやすく説明すると、無宗教だとお葬式の時はお坊さんという仏教の宗教者は来ません。なのでお坊さんを呼んで長いお経を聞くこともないでしょう。お墓も特定の宗派にこだわらず、宗派不問の墓地に埋葬したり、時には海や空に散骨することが一般的です。
*ただ日本では、火葬は公衆衛生上の理由から、実質的に避けることはできません。
一方、不可知論者(Agnostic(s))は簡単にいうと、神や仏の存在がいるともいないとも断言できないと考える人のことです。
つまり、神や宗教に関する問いについて、「答えはわからない」とする立場を取ります。
不可知論者は、神が存在するかどうかを明確に否定するわけではなく、ただそれがわからないという立場です。彼らは、宗教的な真実については答えを出さず、疑問を抱きながらも、その存在に対して判断を下しません。
この二つの違いを理解することが大切です。
無宗教の人は宗教そのものに関心がないのに対し、不可知論者は、神や宗教に関して「わからない」と認めることで、むしろその問いに対して真摯に向き合っているのです。

しかし、日本人の宗教観にはもっと複雑な側面があります。
多くの日本人が「自分は無宗教だ」と感じがちですが、実はその裏には不可知論的な考え方が隠れていることが多いのではないでしょうか。
日本人は、宗教を絶対視することなく、柔軟に神道や仏教、さらにはキリスト教などの要素を生活に取り入れてきました。つまり、宗教を信じるか信じないかに関係なく、文化的な行事や価値観の中に、何らかの宗教的な影響を受けているのです。
このように、宗教の存在について確信が持てないという立場が、実は日本人の宗教的な態度にぴったり当てはまるのです。
生活の中に息づく宗教
日本人が実際には、不可知論的な傾向が強いというわかりやすい具体例を見てみましょう。
たとえば、明治神宮でも湯島天満宮でもどこでもいいですが、神社に行ってお祈りするときは、たいていみんなお願い事をします。

「健康で過ごせますように」
「受験絶対合格」
「安産祈願」
こんな願いを込めますよね。
・・・この行為自体が、何かしらの見えない力を信じていることを示しています。
もし「神なんていない」と完全に考えているなら、そもそも神社に行ってお願いをすることもないでしょう。
しかし、多くの日本人は、「神様がいる」と明確に信じているわけではなくとも、「もしかしたら、何かのご加護があるかもしれない」と考え、自然と手を合わせているのです。
この日本人の宗教観を裏付けるデータもあります。
Pew Research Centerというイギリスの調査機関の調査によると、「宗教は生活の中で非常に重要である」と考える日本人はわずか 6% にとどまっています。一方で、「神や目に見えない存在を信じている」と答えた人は 64%にも上るのです。
Pew Research Center、2024年6月、「東アジア社会における宗教と精神性」
この結果からも、日本人が宗教的信念を積極的に持っているわけではない一方で、完全に超自然的なものの存在を否定しているわけでもないことがわかります。
また、このような宗教観は日常のさまざまな場面にも表れています。
お正月に初詣へ行ってお守りを買ったり、おみくじを引いたりする人は多いですが、その行動の根底には「科学的根拠があるから」ではなく、「なんとなくご利益がありそうだから」という感覚があるでしょう。
さらに、受験の際に神社で合格祈願をしたり、病気になったときに家族が回復を願って神社やお寺に参拝したりすることも、日本人にとってはごく自然なことです。
これらの行動は、特定の宗教に深く帰依しているわけではないにもかかわらず、何かしらの目に見えない力を意識していることを示しています。
つまり、日本人は「宗教的である」とはいえないかもしれませんが、「完全に無宗教である」ともいえないのです。この独特の宗教観は、伝統や文化として根付いた信仰の形ともいえるでしょう。
さらに日本の家庭の中には神棚や仏壇があるところもあり、日々の暮らしの中で手を合わせる習慣が残っていることも、不可知論的な傾向を裏付ける要素の一つであるといえます。

厄年やお守りといった風習も、宗教の教義を意識することなく取り入れられ、日本人の生活に根付いています。
このように日本人は、「自分は仏教徒だ!」とか「イスラム教徒だ!」みたいな特定の宗教に深い帰属意識は持っておらず、信仰の有無を明確に意識しないまま、伝統的な習慣を通じて宗教的な側面と関わっているのです。
Pew Research Center のデータを踏まえても、日本人は「無宗教」というよりも、「神の存在を否定も肯定もできない」という不可知論的な立場にあると考えるのが妥当でしょう。
信仰を持たないとしつつも、神社仏閣を訪れたり、霊的なものを意識する態度は、まさに日本の宗教観が不可知論と深く結びついていることを見事に証明しています。
宗教を生活の一部として受け入れながらも、その意味を深く考えず、信仰と文化を柔軟に捉える姿勢こそが、日本人の宗教観の特徴なんだなと思います。
「日本人は無宗教」と感じるワケ
では、なぜ多くの日本人は「自分は無宗教だ」と感じがちなのでしょうか。
この疑問を解くためには、まず「宗教」という言葉に対する日本人の認識を考える必要があります。
欧米では、宗教とは個人の信仰や人生観に深く関わるものであり、明確な教義や経典を持つものとされています。
しかし、日本では「宗教」と聞くとしばしば新興宗教やカルト、宗教問題を思い浮かべる人が多く、どこか怪しげで、触れてはいけない”タブーなもの”として捉えられることが少なくありません。
つまり、日本では宗教が個人のアイデンティティとして強く意識されていなくて、むしろ、日本では「宗教=個人の内面の問題」とされ、積極的に語るべきものではないタブーなものという価値観が根付いているのです。
この背景には、日本の歴史や文化が大きく影響しています。
明治以来、日本では国家神道が広まり、天皇を神聖視する思想が根付いていました。(大日本帝国憲法第3条)

これまで日本人にとっての精神的・文化的よりどころだった天皇が、
明治以降は国家の統治者として神聖な存在となった
しかし、戦後のGHQ(連合国軍総司令部)による強引な占領政策によって、国家と宗教が明確に分離されることとなり、学校教育でも宗教について学ぶ機会がほとんどなくなりました。
その結果、宗教はあくまで個人的なものであり、公の場で語るものではないという価値観が定着し、多くの日本人にとって宗教が遠いものとなっていったのです。
また近年では、オウム真理教事件やアメリカ同時多発テロなどの影響で、宗教に対する警戒心が強まり、宗教に関する議論がタブー視されるようになっています。
これに加え、宗教が社会の根幹を成す地域(たとえばイスラム圏)との比較から、宗教が対立を生む要因とされ、日本では宗教の話題を避ける風潮が広がってきました。
さらに日本の宗教観は神道と仏教が共存し、融合してきた歴史(神仏習合)を持っており、多くの日本人は生活の中で宗教的行為を行っていても、それを宗教として意識せず、文化的な伝統や習慣として捉えています。
神社でお宮参りをして
結婚式はキリスト教のチャペルで行い
葬儀は仏教式で行う
、、、こんな感じで日本では宗教的要素が混ざり合い、特定の宗教に帰属している自覚が薄いのです。

日本のクリスマスは宗教的な意味合いよりも、
どちらかといえば恋人とロマンチックな雰囲気を楽しむためのイベントという側面が非常に強い
写真提供: Dick Thomas Johnson / Wikimedia Commons / CC BY 2.0
また日本社会では、宗教が必ずしも信仰として捉えられているわけではありません。
たとえば、神社に行くことやお守りを買うことは、「ご利益やご加護があるかもしれない」と思って行うことが多いです。
これは宗教の教えを信じているというよりも、自分の願いをかなえるためにやっているという考え方です。
そのため、宗教の教えを特に大切にしているわけではなく、「自分は無宗教だ」と思う人が多くなるのだと思います。
要するに、日本人が「無宗教」と信じるのは宗教そのものを否定しているわけではなく、「宗教」の定義や認識が異なるためであり、日常生活において宗教的な行為を行いながらも、それを意識していないという文化的背景が影響しているのです。
まとめ
多くの日本人は自分が「無宗教」と考えがちですが、実際には日常生活の中でさまざまな宗教的行為に触れ、信仰とは少し異なる形で宗教と関わっていることがわかりました。
日本人は決して無宗教ではなく、むしろ「不可知論的な宗教観」を持ち、宗教的要素が生活の一部として自然に溶け込んでいます。
まとめると、「日本人は無宗教」というのは単なる思い込みであり、実際には僕たちの暮らしの中に見えない信仰が息づいているのです。