ロマノフ王朝はなぜ滅びたのか?

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21世紀に突入した現在、王制が残っている国はとても少なくなりましたが、100年ほど前までは王様や皇帝が一国の頭として統治するという君主体制を採用していた国が沢山ありました。日本のすぐ隣にあるロシアもそのうちの一つだったことを知っていますか?今回は今からちょうど105年前に崩壊したロシア史最後の王朝であるロマノフ王朝が滅びてしまった原因について探りを入れていきたいと思います!

そもそもロマノフ朝とは?

ロシア史対照年表 ロシア帝国を赤文字で示しました。(便宜上、こまかい年号や中小国家は省略しています)

ロマノフ朝はロマノフ家のミハイル・ロマノフ(Mikhail Romanov)が創始したロシアの王朝で、代々ロシア帝国(1613 – 1917)の君主としてロシアを統治していました。ロシア帝国が生まれたての頃は、ロシア帝国の支配はシベリア中央部(現在のノヴォシビルスクあたり)程度までしか及びんでいませんでしたが、シベリア遠征や18世紀に君臨した女帝のエカチェリーナ2世の功績によりクリミア半島ポーランドの一部を手に入れ、ロシア帝国はかなり広大な面積を獲得することに成功しました。

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この時、ロシア帝国はアラスカもロシアの領土の一部として併合していて、カリフォルニア(ロス要塞)やハワイ(エリザベス要塞)に交易場を設けていました。アラスカは1867年にアメリカがロシアから購入しましたが、もしかしたらアラスカもハワイもロシアの領土になってたかもしれなかったんですね!

ロシア帝国の最後

ニコライ2世(1912年)

さて、そんなロシア帝国ですが最後の皇帝(ツァーリ)として君臨したのはロマノフ家のニコライ2世で、1918年にニコライ2世とその家族全員がソヴィエトによって処刑されたことにより300年にわたるロマノフ朝が幕を閉じ、かの有名なソヴィエト連邦(ソ連)が成立しました。

チャールズ1世やルイ16世の処刑など、一国の君主が処刑される出来事は歴史上少なくはないですが、君主とその家族全員もが処刑される出来事は歴史的にも極めて異例のことでした。しかも、ニコライ2世とその家族の遺体や安否情報がソヴィエト連邦が崩壊するまでの約70年間にわたって秘密にされていたことから、ニコライ2世の処刑は世界史においても類を見ない出来事であったといえますが、一家処刑、ロマノフ朝の滅亡に導いた決定的原因は何だったのでしょうか。

ロマノフ朝滅亡の原因について探るには、ロマノフ朝が専制君主制(ツァーリズム)だったことに注目する必要があると思います。専制君主体制とはすごく簡単に言うと、王様や皇帝など(君主)の支配者が「この国は俺が統治している!俺の言うことは絶対だ!」的な感じで、君主が独断的に国を統治する体制のことです。ロシアの歴代皇帝たちは国内を統治するために強大な権力を保持していて、民衆の権利を厳しく制限していました。

例えば、国会(ドゥーマ)が開設されたのはロシア革命の影響を受けた1905年になってからのお話で、それまでは皇帝による専制政治が続けられていました。歴史学者の土肥恒之によると「『法を超えた正義』と『慈悲』を実現する伝統的な『よきツァーリ』への民衆の支持に対する『確信』があった」として、長年にわたって民衆が皇帝たちに信頼を寄せていたことを説明しています。しかしそれも日露戦争(1904)や第一次世界大戦(1914)などの度重なる戦争によって国内が経済的に疲弊したため、民衆の皇帝による専制支配に対しての不満が高まって民衆の間で革命が相次いで勃発してしまいました。かつて多くの民衆に信頼されていた専制君主体制にも限界があったと言うことができますね。

ニコライ2世一家が処刑されたイパチェフ館の地下室

ニコライ二世はこうした背景から皇位退位を余儀なくされましたが、退位後もロシア臨時政府によって軟禁されてその一年後に処刑されてしまいました。哲学者のニコライ・ベルジャーエフ(Nikolai Berdyaev)はロマノフ朝滅亡についてこのように評価しています。

 「二月革命がロマノフ王朝を倒したのではなかった。ロシアの専制は自ら崩壊した。擁護する者も支持する者もいなくなっていた」

植田樹『最後のロシア皇帝』1998年  筑摩書房

このように伝統的な専制政治を過信しすぎた結果、ニコライ二世は民衆の支持を失い皇帝自らの地位を破滅に追いこんだのです。ロマノフ朝滅亡の決定的原因は皇帝の統治体制にあったといえるのです。

参考文献

土肥恒之『よみがえるロマノフ家』(2005) 講談社

植田樹『最後のロシア皇帝』(1998)  筑摩書房

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